2014年花組「エリザベート」の北翔海莉は歌が上手いだけではない

スポンサーリンク

2度のワクチン接種完了し、まだ一度もコロナ感染を経験せずに、そろそろ3度めのブースターを摂取する予定のヅカメンです。

2014年花組の「エリザベート」を再度Blu-ray観劇しました。
本当なら2014年の北翔海莉フランツ・ヨーゼフを2021年の25周年ガラ・コンサートのそれと比べてみたかったのですが、ガラ・コンサートは抜粋もいいところで、とても比べられるほどの量がありませんでした。

今回はつまり、2014年花組「エリザベート」の北翔海莉についてのみの感想です。
最初に書き始めてから時間がたってしまって、結局合計3回も通して観ました。戻して観たりもしたので、ほとんどセリフを覚えてしまった箇所もあります。

死刑判決を却下するフランツ・ヨーゼフ

死刑判決の決まった息子の減刑を嘆願に来た母親。その母親の悲壮な願いを退けて「却下!」とするフランツ・ヨーゼフの北翔海莉は、両手で力を込めて判を押し、そのまましばらく顔をうつむけたままでした。

北翔海莉のその場面は、フランツ・ヨーゼフのまだ引きずっている苦悩がその両手で固く握りしめた大きな判に出ていたような気がします。「良い皇帝でありたい」という純粋な気持ちと、母親の「冷静に、冷酷に」という冷たい威圧の板挟みで苦しむ若い皇帝。

他の公演の同じ場面もチェックしてみましたが、興味深いことがわかりました。
他のフランツ・ヨーゼフは皆さっとサインをしてさっとハンコを押していたのです。まるで自分の迷いを振り切ってさっさと終わらせてしまいたいかのように。

北翔海莉フランツ・ヨーゼフのその苦悩の表現が、彼女自身のものだったのか、それとも演出家の試みだったのか、今となっては想像するしかありません。それでも僕は、彼の「優しさ」と「優柔不断」という裏と表とも言える性格を、この一場面に垣間見たように思いました。
北翔海莉の演技力の妙ですね。

 

恋に落ちた若い皇帝は本当に自ら決断したのか

花組「エリザベート」Blu-Rayを観た時、僕は「初めて自分の意見を通してしまった若い皇帝の恋の成就」と解釈してしまいましたが、2度めに観た時に少々違っていたことに気づきました。

「皇帝がひとりだけで決断を下す」とルキーニが歌いますが、実際のところ決断を下したのはフランツ・ヨーゼフではなく「彼女はどう?」と訊いたゾフィーなのです。すでにその時姉娘のほうを皇帝の妻とすることに決めていたゾフィーの「彼女」は姉娘なのですから。

ここで「彼女」を妹娘だと思ったフランツ・ヨーゼフが、エリザベートの手をとってしまいます。手をとってしまったからには、もうゾフィーが間に立って「間違いだった」と言うことさえできません。

ゾフィーの言うことに逆らったからではなく、誤解ではありますが「ゾフィーが望んだ娘」だということに気づいた彼が、自らの意志というより「ゾフィーのお墨付きの娘」が自分が快く思ったエリザベートだと手放しで喜んだのでした。番狂わせ、そして誤解。

この場面で北翔海莉は若々しい動きと微笑みと歌で、若い皇帝の恋を表現しています。役者としては最初から悲劇だということはわかっていますが、それを全く出さずに「未来を夢見る若い彼」をキラキラとまぶしいくらいに演じるのは、歌で若さを表現するのと同時に複雑な演技力を必要とします。それを見事に自分のものとしている北翔海莉の名場面です。のちの悲劇で彼女を失うということを観客に感じさせてはいけないのですから。

 

時間の経過における「年齢」を見事に演じ分ける北翔海莉

その後ヒゲをたくわえ、動きもゆっくりとなり、フランツ・ヨーゼフが段々と年をとっていきます。北翔海莉の声もそれとともに落ち着いた深みのある雰囲気をかもし出し、彼女が「年齢」について熟考を重ねたことがわかります。

元々、北翔海莉が歌のジャンルによって歌声を変えることは知られていますし、ジャズなどを歌わせても特徴ある宝塚の歌いまわしを全く感じさせません。

その彼女の歌う「夜のボート」に、僕は何度涙したことでしょう。真っ白なヒゲをたくわえ、動きの緩慢な老人となったフランツ・ヨーゼフは、いまだシシーを愛していますが、実は彼女を理解しようとはしていません。それがすれ違いとなるのですが、あの場面で北翔海莉のような静かな愛情と絶望を「抑えた歌声」で表現したフランツ・ヨーゼフを僕は見たことがありません。

初めのころの若い皇帝と比べてみるとよくわかりますが、時間の経過が彼女のヒゲだけではなく、雰囲気と歌声によっても驚くほどきちんと演じ分けられています。

 

フランツ・ヨーゼフという役は歌が上手いだけでは観客を感動させられない

今回は他の「エリザベート」もチェックしました。

そして、気づいたこと。
フランツ・ヨーゼフ役の生徒さんたちは皆歌に定評のあるひとたちばかりです。それだけに、彼女らの歌声は安心して聴ける美しい響きを持っています。それでも、歌を心を込めて「聴かせる声」に重きを置くためか、お芝居がどうしてもおろそかになってしまうひとが多いように感じました。歌を歌いながらお芝居をするというのは難しいと思います。その場面の役と雰囲気と気持ちに歌を繋げなければなりません。皆上手いのだけれど、気持ちが北翔海莉ほどにはフランツ・ヨーゼフになりきっていないように思いました。

また(特にガラ・コンサート時ですが)心を込めようとやっきになりすぎて、泣いているのかと思わせるほどの感情の高ぶりをみせたフランツ・ヨーゼフもいます。静かで優しくて優柔不断な彼にはふさわしくないのに、です。

北翔海莉のフランツ・ヨーゼフが唯一声を荒げたのは、終盤に差し掛かったころ、「皇帝の最終答弁」の場面です。エリザベートのために、彼は声を荒げて歌いながらトートを非難します。そして、その言葉が的を射ていたのか、とうとうトートはナイフをルキーニに渡すことになるのでした。なんという悲劇でしょう。

いずれにしろ、彼女の持つ「誠実なひと」というイメージが、この花組「エリザベート」のフランツ・ヨーゼフを描くにあたって最大限に発揮されています。

そして、それが実は何を演じてもそつなく上手く完璧にこなしてしまう歌・ダンス・芝居に秀でた北翔海莉という舞台人の「欠点がないという欠点」ではないのかと思うのです。つまり、破天荒な危うさともうひとつ、色香のようなものがあまり感じられないということかもしれません。北翔海莉は僕にとって才能のある憧れの美しいひとですが、それは色香とは違います。彼女の相手役に投げかける眼差しは優しさと愛情にあふれていて、男の僕でさえため息が出そうですが、それは色気のある魔性の危うさではないと思います。

このことについてはまたいずれ書きたいと思いますが、実際のところすでに男役を脱して女性の舞台人として活躍している北翔海莉がこの先どのような舞台を見せてくれるのか、僕は楽しみでなりません。

 

「エリザベート」再演の難しさと面白さ

さて、再演は難しいです。
ひとつひとつの場面を丁寧に役として深めて自分のものにしなければなりません。以前のフランツ・ヨーゼフが邪魔をすることもあるでしょう。自分なりの役をつくるより、あのひとのようなフランツ・ヨーゼフになりたいと思うこともあるでしょう。それを乗り越えて「北翔海莉のフランツ・ヨーゼフ」をつくりあげた当時の彼女に、ぼくは心からの喝采を送りたいと思います。

また、何度も様々な「エリザベート」を観たせいか、どうもルキーニに関心が移ってきたことも追記しなければなりません。僕はあの望海風斗の「狂気」の眼に惹かれました。そして退団してからおっとりとした女性に生まれ変わった紫吹淳の色気たっぷりのルキーニにも。初演の男かと見まごう低音の轟悠と無精髭のゴロツキ感あふれる湖月わたるにも。

いやはや、僕の中では「エリザベート」はまだまだ終わりそうもありません。またいつか書くような気がしますが…さて、どうなりますことやら。

にほんブログ村 演劇・ダンスブログ 宝塚歌劇団へ
にほんブログ村ランキングに参加中。クリックしていただけると嬉しいです。

コメント

  1. まつのみや より:

    ご無沙汰しておりました。
    待ちに待った感想を膝を打ちながら読ませていただきました。
    脳内再生、一時停止しながら首がもげるほど頷きました。
    夜のボートは歌唱が弦楽器のようでとても心に響きます…
    みっちゃんの演技も歌唱も細か〜い所まで一生忘れたくないです。

    • zukamen zukamen より:

      まつのみやさん、お久しぶりです。

      もうここ2年はずっと画面越しの宝塚鑑賞です。北翔海莉はかなり精力的に活動しているので、観られないのがもどかしいですが、仕方ありませんね。

      いつかまた日本に行けて自由に観劇したいと切に願っています。