中山可穂の宝塚小説「娘役」も読んでみた

宝塚あれこれ
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そう言えば買っておいた、と気づいてさっそくKindleで電子書籍を読み始めました。
中山可穂の「娘役」です。

以前宝塚小説の第一部として出版された「男役」を読んだ時にも、感想を記事にしています。

 

中山可穂の宝塚小説「男役」を読んで思ったこと
なにぶんたまにしかナマで観られないし、しかもスカイステージが見られない海外住まいでは、情報が僕のアタマに届くのが遅れることもしばしばです。 こんな小説があったことさえ知りませんでした。中山可穂の「男役」です。 僕は恥ずかしながら彼女の小説は...

 

「男役」のほうはどちらかと言うと宝塚内部だけを舞台にかかれていますが、「娘役」は違います。なんと宝塚ファンのヤクザが登場するのです。

 

宝塚娘役とヤクザ男の並行して進むストーリー

 

初めて宝塚大劇場に足を踏み入れたチンピラの片桐は22歳。
抗争中の敵組の組長を刺そうとやってきたのに、殺すべき老組長を今まさに殺そうという時に、ラインダンスの初舞台生から靴が片桐めがけて飛んできたのです。それを咄嗟に受け止めて千載一遇の殺しのチャンスを逃した彼は、それから10年もの間その初舞台生だった野火ほたるのファンとして密かに宝塚観劇を続けます。

10年を長いとするか短いとするか、それはその10年を生きたひとたちにしかわかりません。ただし、彼らに恋愛感情があるわけではなく、その邂逅も10年の間にたった2回。そして、野火ほたるが片桐を「初舞台の時の失敗」で靴を修理して送り返してきた人だと気づくのは何年もたってからの2回めの邂逅の時です。

つまり、片桐も野火ほたるもその人生がほんの少し交わるだけで、あとは全く違う人生を歩むのです。

そして、10年の間にどちらも自分たちの世界で出世しますが、最後は悲しくも鮮やかな映像の余韻を残しながら物語は終わります。なんだか映画を観ているようでした。

 

娘役に当てられたスポットに感心する

 

宝塚ではそのほとんどのスポットライトが男役に当てられています。娘役はどちらかというと「あくまで男役を引き立てて一歩譲りながら、自分も輝く」という難しい立場を最初からあてがわれているのです。

僕はそうした裏の話に疎く、今回この小説を読んで初めて娘役の「人には知られない苦労」そして「苦労していることを周りにさとられてはならない苦労」もあるのだとわかりました。

ヤクザの世界同様、宝塚の内側もかなり特殊な世界であり、その成功への道筋と葛藤は誰にもわかりません。そしてだからこそ舞台に立ったときの華やかさに誰もが酔ってしまうほどの吸引力をもっているのだと思います。たとえそれがヤクザの組長であったとしても。

 

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ファンの側から見た宝塚の魅力

 

前回の「男役」はいわば宝塚の中から見た宝塚でしたが、今回はファンからの目線を片桐を通して僕たちに教えてくれています。

片桐が教えてくれるのは一途な「ファン心」であり、恋愛感情とは少々違います。恋愛感情は相手からの感情をも欲求するものですが、「ファン心」は「憧れ」の一種であり、見ているだけで聴いているだけでファンには満足感と高揚感が与えられるからです。

片桐は、美しく愛くるしい野火ほたるに「憧れ」を感じてはいますが、それ以上の感情に向き合うだけの肉体的たかぶりを持ちません。
野火ほたるは、片桐にとって「崇拝する女神」であり、同時に「あくまでも護らなければならない姫」なのです。

結末は読み進むにつれかなり想像できるものになってきますし、またその想像を裏切らない映像美を彷彿とさせる色彩に満ちています。これ以上書くとネタバレになってしまいますので、あとは小説を読んでみることをお勧めします。

 

全く違う世界を垣間見ることの面白さ

 

ヤクザと宝塚。
このどう考えても交わることのない世界を組み合わせたところに、この小説の面白さがあると思います。

そして同時に、その面白さは「陳腐さ」とも紙一重であり、ともすればこんなことは安易すぎると苦笑することもあり、それでも「あるかもしれない」とその悲しみを受け止めてため息をもつくこともあると思います。

この小説で描かれた宝塚に関しても、どこまでが真実でどこからが想像力の賜物なのか、僕にはわかりません。

それでも、この中山可穂という作者の「想像を描写できる筆力」と語彙の豊富さに感心しながら一気に読破。
宝塚ファンならやはり僕と同じように一気に読んでしまうだろうと思います。

 

 

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