チェーホフは近代の偉大な劇作家のひとりですが、2014年の星組公演はそのチェーホフの名作「かもめ」のミュージカル版です。5年前の礼真琴への興味と、もうひとつは世界的に偉大な作品の解釈が、果たしてミュージカルとしてどのようなものになるのかという興味が重なって、以前から観たいと思っていました。
芝居の「かもめ」とミュージカルの「かもめ」
「かもめ」は実に解釈が難しい芝居のひとつです。
チェーホフの芝居はセリフをさらりと聞き流しながら観ていると「あれ?結局何だったのか?」となるものも多く、原作をじっくり読んで戯曲としての「かもめ」を理解してから観たほうがいいかもしれません。
僕は芝居の「かもめ」は劇場で何度も観ていますが、演出によりかなり観劇後の印象が違います。チェーホフ自身が書いていたように「かもめ」は実は喜劇なので、最近のオーストラリアの演出では観客の笑いを誘う場面が強調されていました。もちろん最後に「悲しい喜劇」であることに納得する出来なのですが、日本ではそれがどういうふうに解釈されているのかは、残念ながら僕にはわかりません。
ただし、この宝塚の「ミュージカルとしてのかもめ」を観るかぎり、解釈はどうも悲劇に偏っているように感じられました。
笑いが起きないのです。
例えば第一幕の最初のほうでコスチャが母親のことを「僕がいなけりゃ32で通るのに、いるから45に見える。だから僕が嫌いなんだ」ということを言いますが、さらりとし過ぎていて全く笑いがとれません。いや、とろうと思っていないのかもしれません。
ところが、ミュージカルの常でもちろんいきなり歌が始まります。ここらへんが実にとってつけたようで、チェーホフの芝居に合っていないのです。そのたびにプツンと芝居の流れが途切れて、はっと宝塚であることに気づき、そしてまた独白の長台詞でチェーホフに戻るということの繰り返しで、僕はあまり芝居自体にのめり込むことができませんでした。
セリフももちろん随所で削除されていますので、話の流れを組むことを阻みます。つまり、この「かもめ」は宝塚の「かもめ」であり、演出方法から歌に至るまで「独白による内省と希望と挫折と絶望」という哲学的なチェーホフの戯曲の題材を、宝塚歌劇で表現することの難しさを感じました。
夢の宝塚を期待して観に来た観客はその難しさと長台詞に戸惑い、チェーホフのかもめを期待して観に来た観客はそのさらりとした表面的な解釈に戸惑ったとも言えます。
礼真琴演ずるマザコン青年の新鮮さとその絶望
こうした内省的な芝居には、顔の表情のみならず、演者としての役の解釈が必要になってきます。礼真琴の場合、彼女の当時の若さとその新鮮な演技力でかなり高評価を受けたのではないかと(2019年の僕は)思いました。
コスチャは母親のアルカージナの影響がそこかしこに見え隠れするマザコンの若者です。希望に燃えて斬新な戯曲をつくりながらニーナに恋し、二人で夢に向かって進む姿を想像しています…が、結局はかもめを撃ち殺し、そしてそれを自分の未来にオーバーラップさせて徐々に絶望に向かい始めます。
最後の彼の自殺に関しては色々な解釈があるでしょうが、僕はこれは「ニーナへの失恋」と「失われた青春の日々への悲嘆」が自殺の理由ではないと思います。ニーナの健気な「耐えよう」とする決心に比べ、自分の「どうしていいかわからない」という絶望が彼に死への道を歩ませたのです。
「絶望」は人生の究極の「無」であり、その次の一歩は「死」に他なりません。
宝塚の舞台ではその「絶望」をかもめの映像と礼真琴の(この芝居唯一の)ダンスによって表現しようとしていましたが、ここでも少々違和感を覚えました。ダンスでは表現できないものが「絶望」なのです。それはコスチャの視線であり、肩の落ち具合であり、そして後ろ姿の影なのです。宝塚歌劇だからこそダンスを加えたのでしょうが、ここではそれが「絶望」を薄っぺらなものに置き換えてしまっていました。
礼真琴は芸の人で、こんなに早くから着々とその芸の精進を舞台で見せつけてましたが、ここでの芝居はまだまだだという印象を受けました。もちろんその童顔とみずみずしい演技が第一幕のコスチャにはぴったりと合っていたわけですが、それが絶望にまとわりつかれて最終章の自殺に向かう姿勢にはあともう少しだと感じたのです。
彼女が歌い始めるともうそれだけで安定したその声にうっとりとしますので、この長台詞の多い「かもめ」は代表作とはなりえないのでは、と思いました。
もうひとつ、主役なのですから、もう少し衣装のサイズを合わせてほしかったです。特に第一幕では袖と裾が長すぎて気になって仕方がなかったのです。
さて余談ですが、最後に独りで挨拶をするときの礼真琴、お辞儀があまりに低すぎて両手が舞台の床についてしまうというところで笑ってしまいました。身体の柔らかさとそれを舞台でやってしまう天真爛漫さに。
芝居力の豊富な脇の配役が冴えていた
バウホールで新人を主役に据える場合には必ず芸の確かな年長(!)の生徒さんたちを配するようですが、今回は星組の芸達者美稀千種、白妙なつ、音花ゆり、そして専科として初めて美城れんが出演していました。
この美城れんから始まって天真みちるも退団してしまい、これから専科で確かな脇役として存在してほしい新進気鋭が次々といなくなって寂しいかぎりです。
さて、音花ゆりのアルカージナはエキセントリックな性格をよく表現していて歌も確かでした。が、所々やはり若さが顔を出してしまって、老いを毛嫌いする女優としての挟持という仕草が出し切れていない場面がありました。だから、コスチャの「「僕がいなけりゃ32で通るのに、いるから45に見える。だから僕が嫌いなんだ」と言われても、おかしさが感じられないのですね。
メドヴェジェンコの瀬央ゆりあは、情けない少人物を少し腰を曲げた形で表現していて好感が持てました。少々ハンサムすぎますけどね(笑)。
そして、トリゴーリンの天寿 光希 。
僕は個人的にこのトリゴーリンがこの作品の中で一番美味しい役ではないかと思いますが、天寿光希はこういう一癖ある役柄が上手いですね。美稀千種とともに星組の芸達者たちのひとりとしてこれからもがんばってほしいと思います。
白妙なつですが、妙にポーリーヌがはまっていて今まであまり知らなかった生徒さんなのでビックリしました。声もよいし、存在感がはっきりしています。アルカージナ役はこのひとでもよかったのでは…と思いました。音花ゆりとダブルキャストでも面白かったかもしれません。
それから、最後にニーナ役の城妃美伶。
この芝居の中で一番光っていたのが彼女でした。彼女がニーナの若さと未熟な判断力をそのまま演出の先生にゆだねて演技していたのか、それともそれこそが当時の彼女自身の投影図であったのかはわかりません。それでも、このニーナが鍛錬と忍耐に目覚める姿には芯の通った真面目な意志がありました。
いずれにしろ、宝塚でのこうした斬新な試みがバウホールというかなり小さな劇場で上演されたというのはとても画期的なことですし、成功しようとしまいと常に新しいものを取り入れて前進し続ける歌劇団としての姿はとても頼もしいと思いました。
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